有機超薄膜における超高速励起子スペクトル拡散


 光機能性を発現する有機固体において,その機能発現機構の根幹を理解するためには,励起子の超高速挙動,すなわち励起エネルギー移動や電荷分離過程などの非断熱遷移を支配する微視的要因を明らかにする必要があります.大きな分子内振電結合を示す分子が集合した有機固体の場合,低振動数のフォノンから高振動数の分子内振動にわたる幅広い階層の核の運動がサイトエネルギーや分子間の電子的結合を変調し,非断熱遷移速度が分子振動の影響を受けます.具体的にどのような振動モードがダイナミクスを支配しているかを知ることは非常に重要です.

 実験的に励起子と分子振動の結合に関する知見を得るためには,励起子エネルギーの揺らぎを時間領域で評価する必要があり,極短パルスレーザーを用いた2次元電子分光(2DES)によるスペクトル拡散の観測が一つの有効な方法として知られています. 2DESは,光合成反応中心の励起子ダイナミクスに適用され,光合成初期過程のエネルギー移動ダイナミクスやそこにおける量子コヒーレンスの寄与が議論されてきました.しかしながら,これまで光機能性の期待される分子性固体への適用は限られており,また固体中のスペクトル拡散に着目した議論はほとんど行われてきませんでした.我々は,2DESを超高真空下で真空蒸着により作製した有機超薄膜に適用し,極限まで構造欠陥を抑えた条件下での励起子スペクトル拡散挙動を捉えました.

テトラセンをグラフェン基板上に気相成長させた薄膜について調べた結果,最低励起子吸収帯の2DES信号から推定されるfrequency-fluctuation correlation function の減衰挙動に強い温度依存性が見出されました.試料温度を96 Kから186 Kに上昇させると,相関時間が1/5程度に短くなり,スペクトル拡散の高速化が起きました[1].これは,一般に広く用いられる「二準位電子系が調和振動子で表される熱浴に結合した系」の振る舞いでは説明できない挙動です.我々は新しく,比較的高振動数の分子内振動モードと低振動数の分子間振動モードが非調和結合し,エネルギー揺動を与えるモデルを考案し,これにより実験で観測された温度上昇によるスペクトル拡散の高速化が説明されることを示しました.同様の実験を3,4,9,10-Perylenetetracarboxylic-diimide (PTCDI)の薄膜に対しても行い,同じような温度上昇によるスペクトル拡散の高速化が起きることを見出し,この現象が有機薄膜に一般的に認められる挙動である可能性を指摘しました[2].

有機固体では,励起エネルギー移動や電荷分離を引き起こす電子的結合と,振電結合の大きさが同程度であり,これが理論的取り扱いを難しくしています.分子動力学計算と電子状態計算を組み合わせて,励起状態ダイナミクスを予測する研究が進展していますが,計算コストの観点から様々な近似を導入せざるを得ないのが現状であり,その妥当性は実験との比較により検証されるべきです.これまで,電子系と熱浴として働く格子系の結合はlinear couplingのもとで,格子系を調和振動子で扱うモデルが広く仮定されてきましたが,本研究はそのような扱いに本質的な疑問を提起する成果です.

参考文献



1. “Anomalous Temperature Dependence of Exciton Spectral Diffusion in Tetracene Thin Film” Tatsuya Yoshida, Kazuya Watanabe, Marin Petrović, and Marko Kralj, J. Phys. Chem. Lett. 2020, 11, 5248–5254

2. “Spectral Diffusion of Excitons in 3,4,9,10-Perylenetetracarboxylic-diimide (PTCDI) Thin Films” Tatsuya Yoshida and Kazuya Watanabe, J. Phys. Chem. B 2021, 125, 32, 9350–9356.

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